とびっきりの夏物語
自分にとっての、とびっきりの夏物語。
ストーリーは、あるのかないのか不明。
登場人物は、うん、そうだよね、そのメンツ。それから、あちらのメンツもね。
最高だった。断言してしまおう。
いいことばかりじゃなかったし、あれを『絶望』と呼んでも差し支えないのかもしれない。それでも絶望を乗り越えた先で見ることができた世界は、岬の果てに広がる大海原のように青く光り輝いていたし、空気はキラキラしていて、おれの目に映るものすべてが素晴らしいものばかりに感じられた。
最高。ゆえに最悪。コインの裏表。
そりゃそうか、そうだよな。
同じときに、同じ場所にいて、同じイベントの真っ最中だったのに、まったく違う意識で捉えていたのだから。
記憶の照合は、おそらくもう不可能。事実上あり得ない領域。あんなに最高だったのに、もう語ることも話すことも虚しいことだらけ。あんなに最悪だったのに図太い神経しているからだろうな、おれは元気です。
いまも、こうして。
なれの果て、ついにこんなことを書き綴り始めてしまった。
浮かれたまま踊っていたかった。それだけだよ。
長い時間じゃないんだ。朝早くから起きて勉強するか仕事するか、とにかく一生懸命なにかに励んで、いろいろ達成できなくてサボるしかなくなって、それでそれでそれで、ライブハウスに通った。ディスコに出かけた。飲みに行き、騒いで、黙って、沈黙する闇もまた居心地いいものだなって感じて。それでもなおのこと、また会いましょう。また踊ろう。歌おう。お静かに願いますって場所で騒いでしまって、しゃべってしゃべってっていう席で無口になる。いつものこと、だから、変えたいと願ったこと。願ってしまった、変えたいと。
変える必要なんてなかったよ。
だって、自然に変わってしまうものだから。
変えようとしても変えられなくて、それでもふと振り返れば変ったことに気づく。
なにより時代も常識も法律さえも変わった、と思う。社会通念も規範も変った。コンサートのチケット代も変った。おれはもう何年もコンサートに行っていない。行かなくてもいいや。でもライブハウスには行く。喫茶店にも寄る。いま現在は経済的に無理なことが多くて、いまの暮らしの中で最優先していることが別のものであるから、それは確かに。
ほんの空想だよ。妄想だね。嘘偽り。あるわけないこと、あったみたいに。そう言われてもいいんですよ。反論したところで自分で自分を苦しめるだけ。おれが分かち合いたい人たちとの、あれやこれやそれやどれもが、いまなおこんなに輝いている。輝いているというのに、ネットのSNSでは見当たらないね。たまに、見かける「お!」という感動も、じっくり見れば違和感となる。「え!」という驚きには、自分に都合の良い解釈ばかりしてしまう。そうそうそうだった、いやいやちがうよ全然違うよ。自分勝手で自分にだけ都合の良い解釈。その解釈は、めぐりめぐって自分の胸をしめつける。だから解釈なんて、しないほうがいい。しないほうがマシ。
だんまり決めて、海のような青空を見上げて、あの頃よりも澄み渡る海や川を眺めている。どう思う、どう感じている、いったいどう。な。なあ、おれ、自分の記憶が正しいかどうかなんて、もうわかんなくなっちゃったよ。
すべては作り話です。そう片付けてくれればいい。なにしろ、おれが一番よく理解していることだから。あのときと、そのとき、このときと、いつだったか曖昧な時系列。
え?
ノートに書いておかなかったの。かって?
ばかだな、書いてあったって、それが真実かどうかを証明できる軸そのものが存在しないじゃないか。
日記だろうと、ポエムだろうと、絵や写真それすらも、作り変えることができてしまいそうだ。いや、そもそも写真なんて、そんなにないし。ほんの一瞬、そんな一枚でもあればいいほう。海合宿の時にはカメラがなかったはず。山登りのときは...まあ、いいや。
制服姿に憧れて就いた職業。それなのに、自分の制服姿が残されていない。若かった日の自分を客観的に見ることが不可能だなんて、なんかな、そりゃないよな。
いや、待てよ。
ひょっとすると、グーグルマップで。タイムマシン機能を利用すれば、1986年の街を見れるのかもしれない。ストリートビューで自分たちの姿を発見できるかもしれない。だとしても、まだまだまだまだ先のことだろうな。
とびっきりの夏物語は、ここにある。存在している。見れるし、聴けるし、いまなおキラキラしている。それなのに伝えられない届けられない具現化できないことだらけ。
もしかしたら音楽にすれば、なにかが伝えられるかもしれない。そこで歌を作ってみた。演奏した。社会人になってからバンドを作った。感動どころか、あれな。ネタバレすれば人間関係崩壊の絶好と解散の嵐が吹き荒れまくりました。
もしかしたら小説に。それならイメージで感じ取ってもらえるかも。って、おれ書けるの全部ポエムな。ぽえむ、ぽえむ、ぽえむ。どうしろっていうのさ、これ。どうすれば。そんな悶えも、寝て起きればキレイさっぱり。
一日の終わり。それは、ひとつの世界の消滅。続いているように見えた地平線は、ありえないような展開の世界線に移り変わってしまっていた。
思い出す。
思い出せ。
思い出す。
なんで、思い出すたび、違うのさ。
おれは知っている。だからほら、ネットだってば。ネットに書いてあるよ、ウィキで調べれば一発さ。な、おれの話。おれの記憶。おれの好きな歌。そこに全部。
ある。
なかった。
いや、ある。
でも、ない。ないものも、ある。
あるものは、ある。
確かに、ある。いまなお書かれていて、綴られていて、語られてもいる。
おれが経験した夏物語とは違うものばかりが目立って見えてしまうけど、どこかにいないかな、ひとりでいい、ふたりでならもっといい、いや、あの日の、あの時の、あの人たち、彼と彼女と彼女と彼と、それからそう、ほらあのあれあのあのあの、あの。
ごめん。
おれには作家になれる才能がなかった。
書いたら読んで欲しかったな。
ううん、気持ち悪い文章になっちゃうだろうから読まなくてもいいんだ、でも本を届けたときにさ、ほら、懐かしい話をしたり、懐かしい歌を歌ったり、それからそれでほら、ほら、ほら。
何者にもなれなかったおれは、それでも。思う。思っている。感じている。おれって運がいい。それは真実。これからも運がいい。それも現実。おそらく、8度くらい傾斜してしまっているかもだけど、生き抜くためには充分だろう。
おれは、おれに語るよ。
いままで、ごめん。無視してたわけじゃないんだ。いや、そんな言い訳なんか通用しないか。本当に申し訳ございませんでした。おれの時間を無駄に使ってきたことなんかじゃない。おれは、おれのままでよかった。んだって。限りなく自己肯定を。容赦なく恋愛賛歌を。生きているだけで十分すぎるくらいに、しあわせ。ラッキー。この感覚と感謝を、あらためてお届けします。
1986年2月5日、PM9:00。そのときの、おれへ。おれを始める、きっかけ。
おれが性格に意識できたのは、1989年3月21日だったと思うけれど、今こうして記憶を辿れる立場のおれからは見えるんだ。始まりはね、1986年。水面に浮上するのは、1987年。もがいて、もがいて、浮かび上がって、それから潜って潜って潜りまくって、気づいたとき世界を一望できる岬の展望台にいた。
夜は明ける。そのかわり、しっかり闇を味わうこと。大丈夫。冬でも太陽光は暖かく届くから。
いつか続きを書くことがあるとしたら、まったく別の視点で、異なる視座から語ってしまうのかもしれない。それでも。どれも、とびっきりの夏物語。それが冬の記憶でさえも、な。