かいまみえる。見えます。見えてしまいます。見えてしまって筒抜けですです。
なんなんでしょうか、これ。それ。あれ。
どれがって感じもするけど、
とにかく自分が書き綴っているすべてに、
おのれの本性が垣間見えてします。
見えてしまっています。
社会の窓を全開にして、いやいや誰もいないからとか言われて、プライベートビーチで水着なしでくつろいでいるのがバレバレ。
宇宙からの視線を感じてしまいます。
そういったことが自覚されてもなお。
なんで書き綴っているの?
自問自答を無意識に繰り返しているような気がする。
おれは確かに何かを伝えたかった。かった。過去形。
おれには何かができると思っていた。いた。過去完了形。
おそらく完璧に近い状態の「作品」を完成させて、読んでくれた人を圧倒させてしまうような何か。いやいやいや、いやいや、いや。そうじゃないだろ。おれ。
おれが目指していたのは。
そうだ。
恥ずかしながら、相手は、たったひとり。
たったひとりの文通相手に対しての文章。それが始まりだった。
小学生のときのことだ。学校の国語の授業は苦手。作文は吐く。作者の言いたいことが何か。知るか。いや、知りたくて知りたくて理解しようとするんだけど、どつぼ。
なにがどうなったら、それが作者の意図なのか。わかりようがなかった。
わかりようがないものが、わかった気になれる。それが「相手」それも『明確な相手』であり、文通を開始する際に送られてきたピンボケ気味の彼女の写真。そこに向かって、思うこと考えたこと感じること、つらつらと書いた。
個人情報を開示しあいながら始めることの多い文通だから、なにしろ最初に電話番号が記載されていたので電話をかけた。出ないかも。と思ったけれど、彼女は出た。
これからよろしくお願いします。
手紙のやり取り。
文通していることを知った、いや、なんでなのかおれがしゃべったのだろうけどさ、同級生は「はあ?」という反応をしていたのを覚えている。なんだあれ。まあいいや。
伝えたいことがあるんだ。というより、具体的な相手がいるんだ。それが、始まりの始まりであり、それゆえに書けるようになったんだろうと思っている。
もしかすると「ぽえむ」というのは、手紙や文通であることを隠すための手段だったのかもしれないし、どうしても作者の気持ちがわからない文学に対するせめてもの抵抗だったのかもしれない。今となっては、どうでもいい。どうでもいい。だって、隠すこともできなかったし、文学も小説もいまだに自分には「よくわからない」よくわからないし、よくわかんない。
でも好き。
これもよくわかんない。でも好きは好き。
いちばん好きなのは、おれが「ぽえむ」と自覚し「ぽえむ」と呼んだ「ぽえむ」その文章と言葉と単語の羅列と込めた想いと。と。と。と。うん、おれにとっては、文通相手よりも自分自身よりも、「ぽえむ」の向こう側にいる「中の人」のような存在感に対する、ある種の畏敬の念というか。憧れというか。
ぽえむ。エッセイと呼びましょうか。小説と名乗りましょうか。しっくりこないんです。不思議。
ぽえむ、それだとしっくりくる。
なんなんだろ。
試しに小説を書いた。書けなくなった。萎縮しちゃうのかな。いいもの書いてやるぜ、みたいに気構えるのかな。カッコつけたいのかもしれない。カッコつけたいのはファッションと同じだし、おれの生き方そのものだし、なんだよそれって本性丸出しってことじゃないのかな。かな。かな。
それでも。
小学校を卒業して、中学校に入学したころ。
おれは国語に対する劣等感もコンプレックスも苦手意識も持っていなかった。と思う。思うんだ。違うかもしんない。少なくとも、手紙を書いて、手紙を受け取って、文章を通して意思疎通することに喜びを見出してしまっていた。読んで嬉しくて、書いて嬉しい。
高校生のときは、どんなだったっけ?
なんか、つい先週のことみたいに思い出せる記憶もあるんだけど、これ真実なのか事実なのか経験したことなのか空想したものなのか、ますます判別できなくなってる。
でも、ひとつ。よくわかった。うん。わかったよ。
おれが書いてるもの、すべてに、なんらかのエッセンスで、本性が現れてる。
別に大発見でもないか。
こんな本性さらけ出しながら、よくもまあ。な?